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2008/10/29 (Wed)
いやぁ、最近ぜんぜん書いてなかったのですが、それには少しだけ


事情がありましてですね・・・。


先日22日に祖母が他界いたしました。


その時会社だったのですが、危篤(ほぼ諦め状態)の電話がなりまして。


早退させてもらって駆けつけたころには時すでに遅しでした。





うちの祖母(母の母)は10年前くらいかな?70歳頃にアルツハイマーと


診断されて以来、ちょっとずつ記憶がなくなっていきました。


祖母は祖父と叔母(母の姉)夫婦と一緒に暮らしていたのですが


叔母も2人の男の子を育てる身で、あれこれ構っていられなかったのもあり


祖母につらく当たる日も少なくありませんでした。


そして、アルツハイマーの症状はさらにひどくなり、舞鶴(京都)に帰りたいと口にすることも


多くなってきました。また、焼山に住んでいるのですが、家から脱走し


音戸(車で1hか2h)まで歩いて行ったり、天応、坂、北は西条とあちらこちらに脱走しました。


そして、元気だった祖母も亡くなる2ヶ月前にはもう食事を飲み込むことすら忘れ、


食事を取ると気管に入りむせるなどという症状が起こり始めてました。


祖父(満80歳)も流石に祖母を起こしたり、車で送り迎えしたりという行為が辛くなり


老人ホームに終日面倒をみてもらっていました。


先ほどお話したように、食事を飲み込むことの出来ない祖母は点滴の生活を


終日行っておりました。 見る見るうちに、痩せていきました。


亡くなるまでの間に一度危篤という連絡が入ったのですが、私が聞いたのは


事後で、復帰したそうです。 内容は、鼻に管を通し、息をすることもできない


状況まで陥っていたところ、祖父が駆けつけた途端に体調が戻ったとか。


難を逃れたので、私には事後報告だけが送られてきました。


それから2ヶ月ほど過ごし、10月22日 朝1時 に祖母危篤という連絡が


携帯に入りました。


私はすぐに着替え母を拾い、祖母の待つ老人ホームに急ぎ向かいました。


祖母は「ハァハァ」と息を荒くして懸命に呼吸をしようと頑張っているかのようでした。


様態を聞いてみると、熱が39度出ており、酸素も吸収しにくい状態です


とのことでした。


その時は叔母しかいなく、祖父はまだ着いていませんでした。


叔父がどうも祖父を迎えに行っているようだったのです。
(祖父は今血液が悪く透析を2日に1回受けている状態)


祖父が駆けつける前、血中酸素濃度が50%ほどになっていました。


90%を下回ると苦しいと感じる数値だそうです。


それが50%ほどになっているとなると、とても苦しい状態と言えるかと。


それでも懸命に息をしておりました。


そして祖父が駆けつけた時には熱が下がったかのように思いました。


ずっと手を握って触ったり話しかけたりしていたので、熱は感じていました。


そして、祖父が私に代わり付き添いを行ってくれていました。


様態もずいぶん落ち着いてきたように見えたので、まだ息は荒いのですが


祖父は「明日は仕事じゃけ、帰って寝んさい」と私を帰るように促しました。


落ち着いてきたと思ったので、私も言葉に甘えて母とともに帰りました。




それから次の日、危篤という知らせを再び聞くことになりました。



私が駆けつけた時にはもう祖母は死亡診断をされており、


今死に化粧をしてもらっている最中でした。


私は中には入れてもらえなかったので、老人ホームの食堂で母と叔母と


待っていました。


祖母の死に化粧が終わったということで、様子を見に行くと


まだ眠っているかのようなそんな顔で、きれいにナチュラルメイクを


された祖母が横たわっていました。


それが大体お昼の14時ごろでしょうか。それから祖父の透析が


終わるまで、どうにも事が運ばないということで、私と母と父が祖母の


傍で祖父が戻ってくるのを待っていました。(大体17時頃といわれ・・・)


その間、たくさんの老人ホームの従業員さんが祖母の部屋に訪れて


お別れをしてくれていました。その様子を見てしまうと、なんだか


祖母が遠いところに逝ってしまったんだなと改めて実感してしまい


涙が止まりませんでした。母は泣いてませんでした。


「おばあちゃんは今このあたりから自分を見てるだろうからねー」


寂しくないんだそうです。


それから18時ごろになって、祖父とお迎えに行っていた、叔父が


戻ってきました。叔母は別件の用事をしていたようで、途中合流して


一緒に戻ってきたようでした。


そして、祖母に手を合わせてました。


それからその日は葬儀の方に祖母を実家に運んでもらう手配をし


帰りました。


次の日10月23日がお通夜でした。お通夜ってお葬式ばりに


派手なんですね・・・。お葬式と変わらない感じで人もたくさんでした。


そして、10月24日は朝は10時から夜は8時まで祖母のいる控え室で


遠方の親戚が訪ねてくるのを父と待っていました。


途中、スイタがかたんかたん とか 私が寝転がって漫画を読んでる時に


頭から少し離れた畳の上を、ザッザッと歩く音が聞こえました。


「あー、おばあちゃんがどうもあちこち見回ってるみたいよ」と父に言って


話してました。


そして、遠方の親戚の方が夕方5時頃に来られた時に、少しお話になりました。


祖母には3人の姉妹と5人の兄弟がいまして、


祖母の姉(他界)
祖母
祖母の妹(出席)
祖母の下の妹(出席)


という兄弟の関係でした。


その時、祖母が亡くなった日付が10/22 亡くなった年齢が79歳と


話になった時、祖母の姉が亡くなった日も10/22 で


亡くなった年齢も79歳ということが判明。


とてもすごい偶然だなーってお話してました。


それから10月24日に葬儀を行い


焼き場できれいに焼いてもらいました。


祖母は手のひらに乗るくらい小さくなっていました。


母が少し言っていたのですが、人は病気やそれによって


悪くなったところがあった場合、焼くと黒くなるそうです。


祖母も頭の一部が黒くなっていました。




もともと小さくて、かわいらしい感じの祖母で


気さくで若いころは綺麗だったらしく


祖父(船乗り)と結婚し、とても苦労をしたと聞きました。


祖父は自衛隊の出身で定年後70歳まで民間の重役を


勤めていたのですが、そろそろ引退して祖母と


老後を楽しもうといっていた矢先にアルツハイマーと


申告され、旅行にいきたかったなどと話していたのですが


確かに行ったところをみていませんでした。


祖母も2人の娘に恵まれていたのですが、祖父は船乗りで


1ヶ月帰ってこないこととかざらでした。


台風がきたときに、普通は男性が雨どいなどの準備を


するものですが、それを祖母は一人でやっていたそうです。


とても苦労も多かったのではないでしょうか。





そんな祖母も今は天国で舞鶴の母と楽しく暮らしていると


信じています。


ご冥福をお祈り申し上げます。
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